ハラプロジェクト「大須ドン底」

veatrice2012-07-04

ハラプロジェクトの「大須ドン底」観てきた。1幕、3幕を七ツ寺のスタジオ内で、第2幕目は大須商店街アーケード内、呉服屋「末広屋」のシャッターの前で演るという趣向。末広屋前に行くまでに、大須の路地裏を「ハイカイ」して観客は身体を動かせたので、辛気臭いロシア演劇が楽しいエンターテインメントになっていた。

正直言って、今の若い役者さん達が演じる舞台からは「ゴーリキーどん底感」は感じられなかった。無理もない。求める方がおかしいよ。これは21世紀の「娯楽作品」としての「大須ドン底」なのだ。演出の原さんだって、まだ66歳と若い。戦争も飢饉も階級闘争も経験していない。19世紀末ロシア極貧労働者階級のリアリズムを求めちゃあいけない。スタニスラフスキーのリアリズムを演技に求めちゃいけないんだ。所詮、演る方も見る方もみんな「豊かな平成の日本人」じゃないか。

だけど私達は、この100年間で、本当に「どん底」から這い上がって、「豊か」になったのか。原さんは「否」とプログラムの中で次のように語っている。

「どうやら今私共は、持ち切れないモノ、支えきれないモノを大量に作り出し、あげくそのモノに埋まり窒息しかかっている、哀れな、無残な、理不尽な、やるせない、とてもカッコ悪いハズカシイ生き物として肩身の狭い思いをしながら生きている。この先わずかな残された時を過ごすのであれば、洞窟のような地下室から階段を上って地上の嘘の楽園を夢見るより、「ドン底」の人となってリアルな生のスッパイ汗にまみれて蠢く方がどんなにか嬉しい事だろう。」

そうだね。この100年間で、物質的に豊かになり「どん底」から這い上がってきたつもりだった私達は、今また電磁波にさらされ、放射能にまみれた瓦礫にかこまれて、新たな「ドン底」にいるではないか。この「ドン底」で、汗にまみれて生きていくしかない。どこにいても前を向いて生きていくしかないのだ。


又、原さんは「税金」について、次のようにも語っている。

「触ればヤケドしそうな「アブナイ」「キケン」な「エロティック」な芝居は今ではすっかり影を潜め、「文化助成補助金」などという国民の税金を分けてもらさないと、芝居作りもナカナカ苦しくて大変らしい。(中略)しかし私は税金を出せば出すほど使えば使うほど、国は滅び、人はすさび、哀れになると思っている。それで、少なくとも私の芝居はお客様のお金だけでそれだけおもしろい世界を作ることができるかに生命をかけている。できなければやめる。であるので、今この文章を読んでいる皆様に支えられて芝居を作っているのであります。心よりありがとうございます。」


大須ドン底」7月9日(月)まで上演しております。どうぞお出かけ下さいまし。

電力利益の7割は家庭から

veatrice2012-05-23


一昨日は日食、昨日はスカイツリーと、新聞各社、一面が同じだったけど、今日はそれぞれの特徴が出てておもしろかった。

1.中日新聞フラーレン生成を解明」と地元名大の篠原教授の業績がトップニュースに。2.読売「フィッチ日本国債を格下げ改革停滞に警鐘」と、消費税​率引き上げキャンペーンご執心。ご苦労様。

私が一番面白いと思ったのは、朝日。
3.朝日「電力利益 家庭から7割 企業より割高料金」の見出しの後、記事で「総括原価方式」と「地域独占」の弊害を解説し、「今回、家庭向けの利益が大きいことがはっきりし、家庭向け料金の値下げや、家庭向け電力の自由化を急ぐよう求める声が高まる可能性がある。」と記事を締めくくっている。

中日新聞も夕刊では「電力利益の69%家庭から:大口向けは家庭の半額」と電気料金がトップに。電力会社の企業重視に関しては、NHKの7時のニュースでも取り上げていたが今後は「常識」として広まっていってほしいものだ。

さて、母にもわかるようにおさらいしよう。「電力会社は日本に10社あるけ​ど、各電力会社が電気を売ってる総量は、「家庭向け対企業向けが4対6」、だけど儲けの割合は「家庭から対企業からが7対3」。極端なのは東電で、儲けの9割は家庭からの電気料金から。つまり企業の電気料金に比べて家庭はベラボウに高い電気料金を払わされてるってこと。

なんでそうなるかっていうと、大手企業向けだけ「電力自由化」になってて、企業は東電や中電等の地域の電力会社以外からも電気が買えるから価格競争が起きて、電気代が下がっているけど、家庭は、たとえばうちなら「中部電力」から買うしかないので、黙っていわれるがまま払うしかないんだわね。家庭向けも「自由化」できるように法律変えてもらわなかんわね。

しかし、なんで今頃これが報道されるんだろ。「経済産業省の発表」ってなってるけど「赤旗」では去年の9月に同様の内容がとっくに報道されてたらしい。私が初めて知ったのは田中優さんの講演会でだったかな。

まあ、いろいろあるんだろうね。

2012年5月5日、原発全基停止

veatrice2012-05-05


今日は2012年5月5日のこどもの日。ちょうど満月で、しかも月が地球に最接近し普段より14%大きく見えるというスーパームーンの夜。

今夜、日本国内の原発が全基停止する。北海道電力泊原発3号機が定期検査に入り、これで日本国内から稼働中の原発がなくなる。実に42年ぶりのこと。

40年以上に渡り原発の危険性を訴え廃止の運動を続けていらした研究者、活動家の皆様に心から敬意を表します。私のような無関心層が皆様の活動の足を引っ張ってきたことを恥じ入ります。福島第一原発の事故が起きる前に止められなかったことに対しては忸怩たる思いがおありでしょうが、それでもやはり皆様の活動があってこその今日。本当にありがとうございます。

一般の普通の市民が、今、目覚めかけています。原子力発電だけでなく、政治経済全般に渡って現代社会における様々な問題が、つながり合っていることもわかってきました。

脱原発への挑戦は、自分達の暮らしを自分達の手に取り戻す新しい挑戦でもあります。今日が、スタートです。

中日みたゃよぉ、よわゃ〜でかんわ

veatrice2012-04-09


昨日4月8日は一日中花見で忙しくテレビを見る暇がなかった。twitterで結果だけ見たら、案の定ドラゴンズは悲惨な負け方をしたらしい。見なくてよかった。

私がドラゴンズの試合を熱心に見るようになったのは、落合監督が就任してからである。8年間に6度の優勝をするような「勝てるチーム」にしてくれてからである。

応援団のような特別な人達は別として、一般の「合理的ナゴヤ人」は、わざわざ金を払って、時間を割いて、足を運んでまで鑑賞する娯楽には、必ず何らかの見返りを期待する。スポーツであれば勝利。贔屓チームが勝てば気持ちがいい。気持ちの良さが味わえる勝利の確率が高い試合なら観に行く価値があると判断する。しかも、観戦、鑑賞は「どこかから回ってくるタダの招待券で行く」という慣習も強いので、よほどの愛好家でない限りなかなか身銭は切らないが。


同じことは舞台芸術一般の鑑賞姿勢についても言える。才能のある若い無名のアーチストを発見し、成長していくのを見守り成功を応援する、な〜んてことに興味のあるナゴヤ人は、まずいない。ナゴヤ人をコンサートや演劇に誘う時、必ず聞かれる言葉は「その人有名?」有名ブランド劇団なら楽しませてもらえるはず。損は無いだろう。原石磨きには興味がない。劇団四季なら行く。


若い役者が成長するには、目の肥えた客に観てもらい的確な反応をしてもらうことが必要。客が役者を育てる。しかしナゴヤには、自分の知らない劇団に飛び込みでお金を払ってまで観にいく奇特な粋人はまずいない。客はほとんど「身内」か同業者。「よかったよぉ〜」と褒め合い「愛のムチ」的キビシイ劇評は耳に入ってこない。結果的に役者も劇団も勘違いし成長することもない。蛸壺集団がやたらにたくさんできる。名古屋では芸術家は育たない。

話がそれた。昨日に続きドラゴンズのことを書こうとしていたんだった。

もとい。今年私は、今のままのチーム状態ならテレビで試合を観る気は起こらない。ましてや金払ってまで球場に行く気などさらさらない。私は「合理的ナゴヤ人」。いい気分になれないものに、なんで自分の貴重な時間とエネルギー使わなかんの。せっかく「勝者のメンタリティ」を身に纏い始めた選手達が気の毒でならない。頭に浮かんでくるのは、この才能のある若者達の潜在能力を押し潰す無能な指導者達への怒りばっかり。


スポーツや芸術を鑑賞する醍醐味は、選手やアーチスト達の人間離れした技を観て魂の震えを味わえること。「人間はやればあそこまでできるのか」という人間讃歌。その忘我の恍惚が味わえるからこそ、スポーツや芸術は鑑賞する価値がある。そうでないなら、見る必要なし。

嘗てドラゴンズは「ドベゴンズ」と自虐的に呼ばれる時代があった。名古屋出身の直木賞作家清水義範氏の名作「蕎麦ときしめん」の中にも名古屋駅でタクシーに乗車した東京からの客と運転手の会話の場面がある。東京からの客には「まぁよぉ、ドラゴンズみたゃ、弱い(ょわゃ〜と発音する)でかんわ。(いけないです)」が挨拶がわり。ドベゴンズは「弱い」というのがデフォルトで、実際の試合内容とは関係なく「ほぉ〜んなもんよぉ、打ってぇせんもぉ、勝てすか。(勝てるわけがない)」と、酒の肴として悪口をいう対象としての存在価値が大きかった。

このような弱いドベゴンズの方が安住できるメンタリティをお持ちの「ジョイナスドラキチ」の皆様におかれましては、また悪口を言いながら不味い酒の飲める楽しいシーズンが始まりましたね。


あああ、こんな皮肉めいたこと書く気じゃなかったんですが。
選手達にはこのつらい時期を耐えて忍んで、がんばっていただきたいものです。

嗚呼 中日ドラゴンズ

veatrice2012-04-07

今日ドラゴンズは、勝てた試合を落とした。単なる一ファンに過ぎない私だが、怒りのあまりこれを記さずには今夜は眠れない。


前監督の教えを血肉にし自立した選手達が伸び伸びと実力を発揮し、開幕から引き分けを挟んで5連勝だった中日ドラゴンズだったが、現監督が「自分の色」を出し始めたとたん歯車が狂ってきたようだ。


小学校から高校まで同学年で何万人といる野球人口の中からドラフトでほんの数人しか選ばれないプロの野球選手ともなれば、打つ、走る、投げるといった個々の選手の持つ力量は皆、優秀で、差は紙一重であろう。その潜在能力をオフの練習期間にどれだけ磨き上げ、そして本番の試合の中でどれだけ発揮できるかは、ほぼ精神的な部分にかかっているだろう。


そのいい例が今年の巨人だ。例によって金に任せて他球団から主砲やエースを掻き集め、評論家陣もそろって優勝候補に挙げていたが、選手達は本来の実力が発揮できないまま、チームは現在最下位に沈んでいる。お気の毒なことだ。


さて、我が愛するドラゴンズは、開幕から4連勝した。すると、これを現監督は「Unbelievable!(信じられない!)」と言った。あなたが選手だったらどう思うだろう。私なら腹が立つ。自軍が勝ったことを信じられないなど、仮にもプロが口にする言葉ではない。お前は、欽ちゃんか。しかも、前年に最下位チームなら話はわかる。2年連続リーグ優勝をとげたチャンピオンチームだ。開幕早々Bクラスチームから連勝したって当然ではないか。

現に選手達はどう思っただろう。気にしないで聞き流せるほど大人であってくれればよいが、と心配しながら私は昨日のヤクルトとの初戦を見守っていた。

エース吉見が7回まで1−0で抑えていた。投球数も71球で完投あわよくば完封ペースだ。なのに7回裏に代打を送られ交代させられた。私が吉見だったら思う。自分は信頼されていないのか。1点のみのリードではお前の投球では不安だから加点を狙いにいった、というメッセージ。


そして今日のヤクルト第2戦。1−1で迎えた8回裏の得点チャンス。またしても平野3塁コーチがゴーストップの判断を間違えた。これで7試合で4度目である。森野が止められず走っていれば得点できていた。さらに悪い事には、平野コーチの気まずそうな顔がテレビに映ってしまった。この映像はやがて選手の目にも入る事になるだろう。信頼できないコーチ。。。

すると山井が9回表にHRを打たれ1−2で1点リードされた9回裏。谷繁がフォアボールで出塁すると代走が出された。代えられた谷繁も怪訝そうだった。は?本当にいいの?延長戦とか考えてないの?しかも出たのは代走スペシャリストではなく出塁すること自体が初体験の高卒ルーキー。何考えとるの?そして、代打は、特にバントの名手でもない堂上。結果バント失敗で、中途半端に打ちにいってダブルプレーで試合終了。


後味の悪い負け。しかも、この負けは、連勝の後のただの一敗ではない。采配ミスによる負け。開幕前から心配されていた首脳陣に対する不安は不信となって現れてしまった。


「人気取り」を狙い、知名度を重視し指導能力不問でOB選手を中心にコーチ陣を組んだ球団と現監督は、プロスポーツプロ野球選手とプロ野球ファンを冒涜したことを自覚して欲しい。


私のような素人でも、この10年余りでメジャーリーグをテレビ観戦し見る目が肥え、知将を戴けば「打率が最下位でも采配次第で優勝できる」野球の醍醐味を経験した。一旦本物の美味しさをおぼえてしまった舌には、不味いものの不味さはたえられないものだ。しろうとの私でさえこうなのだから、現場で野球をやっている選手たちの「やるせなさ」はいかばかりだろうか。


しかし、選手達これに腐らずに、これを乗り越えていってほしい。願わくば、8年間の落合監督の下で鍛えられた「自立した強い精神」で、しばらくは、気持ちが乱されるかもしれないが、それに惑わされずに、本来の実力を発揮していってもらいたい。

そうすれば、やがて、どんな指導者の下だろうと、どんな不利な条件でもブレずに実力の発揮できる、強い、真のチャンピオンになっているだろう。

数学は美しい

veatrice2012-01-16


久しぶりに講師仲間と飲み会。数学、物理、化学、地学、英語の7人で。私が最年長で,だいたいみんなアラフォー世代。

昨日はセンター試験二日目で、夜の高校生向け授業もお休みだったので会議の後、みんな時間が空いていた。みんなが揃うこういう時間は、最近では稀でほんと貴重。

初顔合わせの人もいたので、焼き鳥を頬張りながら、初めのうちは、職場のゴシップで距離を測る。そのうち、このメンバーなら変に気を遣う必要がないとわかったかガチで本音トークに。


地学講師が言った。「大学に入ると高校でやっていた生物は化学になり、化学は物理に、物理は数学に、数学は哲学になりますよね。」

すると数学講師が「いいえ。物理は数学になりませんし、数学は哲学とは根本的に違います。」とキッパリ!

確かに、自然現象の解明に数式や計算は使うが、それは数学の本質ではない。
自然科学も哲学も、自然現象や人間という「対象物」がある点で有限であるが、
数学は、対象物がない。何もない無から生じて概念が無限に発展していくのが数学である。物理の1と数学の1は違うんです。


というような趣旨の事(ごめんなさい。私の理解度と記憶が曖昧なため言葉遣いがかなり不正確かもしれません)を言った。

この数学講師が生徒に伝えたいことは、数学の美しさ。「小さな数学者」を育てたい。広中平祐森重文から繋がる日本の「代数幾何」の研究は、中学生なら中学生のレベルで、高校生なら高校生のレベルで、できる。代数と幾何がつながった時の美しさを生徒に味合わせたいんです!


その数学講師の迫力に、一同圧倒された。


するともう一人の数学講師も「以前は『合格答案の書ける授業』をやっていたが、M先生の影響で、去年は、授業で丁寧に『余分な』数学の話をするようにしたら、その方が生徒の食いつきはよくなったよ。」と。


むむむ〜!おばさん英語講師も嬉しいぞ!

大学受験で合格点を取らせるのが使命の予備校講師が、英語という外国語を教える真の狙いは。。。。私は本当は生徒に何を伝えたくてこの仕事をしているのか。私が話す出番が来る前に、お開きになっちゃった。今度、語っていいかなぁ。